第64回高等学校の部 最優秀作品

「日常の罪について」
 山梨県立都留高等学校 2年 木下夢実

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 夏の暑い日差しが首筋を焼く。平成最後の夏休み、七十三年目の終戦記念日に、戦没者追悼式をテレビで眺めている。こんな愚かなことは二度と繰り返してはならないと、定型の感想を述べてしまえば、何事もなかったように日常が訪れ、高校二年の夏は過ぎてゆく。

 しかし、ある本を読んだことがきっかけで、何気なく過ごす日常の罪深さに気付いてしまった。その本は、遠藤周作著、『海と毒薬』だ。戦争末期、九州の大学付属病院で行われた米軍捕虜の生体解剖事件を題材とした小説である。

 物語ははじめ、大学病院の研究員である勝呂(すぐろ)の視点で進んでゆく。勝呂から見た病院は恐ろしかった。戸田や、橋本部長たちは死を悼まず、患者を実験台や出世の道具として扱う。医学部長の座のためならば、それがあたかも正しいことのように死を隠蔽してしまうのだ。私は、医師たちの考えを理解することができなかった。理解できないその異常さが怖かった。そして、当の勝呂も、生体解剖への参加を承諾してしまう。罪の意識を持ちながら、生体解剖の実験から脱(のが)れることができなかったのだ。まるで、黒ずんだ海に飲み込まれていくように。

 生体解剖を承諾してしまった勝呂だが、私は彼に好感が持てた。彼は罪の意識を持っていたからだ。担当になったが弱っていくのを憐れみ、病院の異常さに疑問を抱いていた。罪の意識を持つ勝呂は、私が理解できる唯一の人物だった。

 一方で、私は、戸田のことをひどく嫌悪した。研究員の戸田は、患者が亡くなることに何のためらいも感じないような人物だ。「病院で死なん奴は、毎晩、空襲で死ぬんや。」この言葉に私は憤った。戦争の中で生活しているからこんな考え方になってしまうのか。人でなしだ。

 二章に入ると、物語は過去へと遡り、戸田の過去も明かされた。模範生を演じつつ、人妻の従姉と姦通したり、妊娠させた女中を自宅で堕胎させたりする戸田を、卑劣だと思った。

 しかし、戸田の、ある独白で私の気持ちが傾いた。

「ながい間、求めてきたあの良心の痛みも罪の荷責も一向に起ってこやへん。一つの命を奪ったという恐怖さえ感じられん。なぜや。なぜ俺の心はこんなに無感動なんや。」

 私が戸田を理解できないように、戸田自身も自分を理解することができていないのだろう。世間や社会からの罰だけを恐れ、自分の中の良心を見つけられない、自分自身の不気味さが、彼をどんどん卑劣な行為へと駆り立てていく。

 もし、この事件に罰が下されないとしても、彼の抱いてしまったこの疑問は、次第に彼を蝕んで、いずれは彼の心を飲み込んでしまうだろう。勝呂が自分の倫理観に従って行動し、苦悩するのに対して、善悪の基準すらない戸田の心の闇は、なんと深いことだろう。私は、いつの間にか勝呂よりも戸田に共感を覚えていた。

 戸田の手記にあった印象的な言葉がある。

「ぼくはあなた達にもききたい。あなた達もやはり、ぼくと同じように一皮むけば、他人の死、他人の苦しみに無感動なのだろうか。多少の悪ならば社会から罰せられない以上はそれほどの後ろめたさ、恥ずかしさもなく今日まで通してきたのだろうか。」

 はじめはこの言葉を読み流していた。しかし、戸田の心に共感すればするほど、この言葉が、頭にこびりついて離れなくなるのだ。

 かつての戦争の悲惨さを知りながら、私は、当然のように「日常」に流されている。いつもの夏と同じようにテレビを眺めている。私は、戸田と同じなのだろうか。戸田と同じように他人の死、他人の苦しみに無感動なのだろうか。

 それが罪なのかどうか私にはわからない。まして、誰が、私に罰を与えるというのだろう。それでもなお、海のように私を飲み込み、当たり前のように過ぎる「日常」が恐ろしいものに見えてくる。

 この国は平和だ、自分は正しく、何の罪も犯したことがないと思っていた。しかし、この本を読み終えた今は、正しいと思っていた自分を恐ろしく思う。戦争は、人を狂わせ、残酷な行為へと駆り立てる。私は、このことを本当に理解できていたのだろうか。過去を顧みないうちに、心の奥底にある海は広がっていた。黒ずんだ海はいつ私たちの心を飲み込んでもおかしくないのだ。

 戦争が人を狂わせるのではなく、私たち自身の心にそんな毒が隠されている。終戦七十三年目、私たちは定型の感想を抜け出し、無感動な自分の心と向き合うべきなのかもしれない。卑劣な人物として描かれる戸田を通して、現代の私たちに通じる、著者の警告を聴いたような気がする。

 

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●読んだ本「海と毒薬」(新潮社)
遠藤周作・著

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